MEMEの日々のことども

日々の星屑を拾って書き残そう・・、そんな「85歳」。  HP「素材の小路」「MEMEのベランダ」(裸婦デッサン等)「MEMEの便箋」「ドレスの小路」「けいの部屋」など。

昨日見たNHK番組



NHKスペシャル 終戦特集ドラマ「15歳の志願兵」


http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2010-08-15&ch=21&eid=11323


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昭和18年。海軍は兵士不足解消のため、全国の中学校に強制的に志願兵を割り当てた。愛知一中は47人。しかし3年生の藤山正美(池松壮亮)は戦争を遠くに感じていた。


という状況から始まるそれぞれの苦悩を描き出していた。
本人・父・母・教官・友人・友人の家族・・・、それぞれがそれぞれに立場にがんじがらめになって思うことが口に出来ずに、ずるずると戦争にのめりこんで行く姿。



何が怖いって、それぞれの立場の人物が、もしかして正しくない答えかもしれない・・・と思いながらも、人の目や大勢に流されていく有様。



それが、どんな悲劇に発展するかをみんな薄々知りながらも、突き進まなければ収まりが付かなくなっていく様子は、人間の愚かさを思い知らされてつくづく情けなくなる。


勿論、そういう立場・環境に立たされた時には、たぶん私も同じ行動を取っただろう・・・。



こうして、47人のうら若き青年・・いや、少年とも言えるような純情可憐な中学生の「志願兵」が誕生し、そしてその中から若き命を落としていった者が出た。


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終戦の日、私は疎開先の母の実家に居た。
二か月程の疎開の日々は、小学2年の私の心にもしっかりと染みついている。


医院を営む母の実家には沢山の人々が働いていたし、傷病兵も数名預かって居たことを覚えている。
そんなところへ、母が私たち兄妹の内、小さい子供4人を連れて疎開したのだ。
父と大人の姉三人は新潟駅前にある我が家に残った。
そこへ、続いて母の妹一家が遅れて疎開してきたものだから、いくら広い家だとはいえ、大変なことになっていたと思う。
今思うと、母の実家の叔母のご苦労はどんなものだっただろう。
想像も出来ない程のご苦労がお有だっただろうに、いつもにこにこと対処して下さったそのお顔を思い出しては今更ながらそのお心の広さを思い、時々涙ぐむ。


そんな大所帯の皆が一堂に集まり、「これから大事な放送があるから座って聞きなさい」との厳かな言明と雰囲気に、却ってはしゃいだ気持ちになって廊下の柱に寄りかかっていたような記憶がある。


そして、例の放送・・・。
「耐え難きを耐え・・・」


居並ぶ大勢の大人達が「負けたようですね・・・、良く理解できなかったけど・・・」とさざめき合っているのを聞いていた。
そして、これからどうなるのだろう・・・という戸惑いが背後で一杯に広がっていた。


「女子供は、頭を坊主にしないと危ない目に合うらしい」とか、「アメリカは鬼のように赤い顔をしているそうだ」など、未知への不安でみんなが興奮していたような気がする。



終戦の日の思い出はそれだけ。


それから間もなく、新潟の家に一家で引き上げたのもあまり覚えていない。
ただ、米びつが空になっていて、一掬いの米しかなかったのが目に焼き付いている。



こんな経験はもう二度と嫌だけど、思えば凄い日々を耐えて生きたものだと思う。
食糧が無い中、どうして私たち兄弟が生きてこれたかが不思議。
しかも、病で私が三歳半の時から半身不随になった父の左腕一本で・・・。



思えば、偉大な父と母だった。
そして、疎開を受け入れて下さった母の実家の皆様。
ただただ感謝の気持ちで一杯。


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この番組を、万歳を捧げられた「あ・の・方々」もご覧になっただろうか・・・?





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今日もかたい記事になってしまった。
一年に一度の終戦記念日は、人間として、してきたことの重大さを噛み締め、いつもしっかりと心に焼き付け、バームクーヘンのように節を刻みながら生きて行こうと思う。




あ・・・、人間として・・・もそうだけど、私自身もバームクーヘンのように徐々に徐々に実の体重が「でかく」なっているぞ・・・。 くわばら