-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
9日の記事で、「その10日後に、3番目の驚愕が待っていようとは・・。」続く・・と書いたままだったけれど、その続きを急ぎ書き加えます。
前にも書いたことがあるのでご存知の方もいらっしゃるでしょうが、なんと! またまた恐ろしいことが・・・!
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
遅くなってしまいましたが、続きを書いておきましょうね。
★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、あまりにも急な「義父・義母」の急逝と、義妹の次男誕生という三つの大事が40日の中にぎゅう詰めで起こり、
義父が発病 ⇒看病 ⇒葬儀
義母が発病 ⇒看病 ⇒葬儀
その間に 義妹の出産 ⇒1歳の義甥の面倒や遠方からの見舞客の御もてなし
などなどの渦から取り敢えず開放されたのが騒動が始まってから約40日後の 1月16日。
お正月を挟んだ11月末〜翌年1月前半のその日々は、ミニ引っ越しで精神的に参っていた息子たちにも過酷な、・・過酷すぎる日々だった。
それを反映したように、学校から思ってもみない呼び出しをくらって駆けつける私・・というおまけ迄ついた地獄のような日々。
ストレスというものの恐ろしさをまざまざと知った事だった。
★
そんな「長男の嫁」の務めを何とか(本当にナントカ・・・)こなし、義妹の赤ちゃんも順調に静養期間が過ぎたのを機に、ず〜〜っと空けていた我が家へ帰ることになった時の心の中は、今思っても迫るものがあった。
自宅に帰る直前、義父と義母の仮祭壇の前で手を合わせ、「ではこれで自宅に帰ります」と報告していた時、思わず突き抜けるような慟哭が襲ってきたのを抑えることが出来なかった。
・・・・・・・・・・・・・・
そうして、やっと迎えた我が家での生活・・・。
毎年必ずお正月に「成田山」にお参りに行くのを常としていた我が家の習慣が果たせなかったその年のお正月を取り戻そうと、早速一家で「成田山」に出向き、事の次第を胸の中でご報告し、少しは気持ちも落ち着いて、新しい生活へと踏み出す気持ちになったのだった。
そして・・・!
自宅に帰るなり、鳴り響く「電話」のベル!
何事か・・・?と受話器を手に取った瞬間に流れてきた新潟に住む姉の声!
「どこへ行ってたの?! 何回電話しても通じなくて・・・!おとうさんが倒れたから早く新潟へ帰って来て!!」
耳を疑った!
二か月前に珍しくも母と上京し、義父母を訪ねて歓談していた、その父が・・・!
取るものも取りあえず、その夜の夜行で妹達と新潟に駆けつけたのだった。
なんでも、その日、自宅の庭の大好きな池の鯉を眺めていて、急に倒れて大きな石に頭を打ったのだとか・・。病名は「脳出血」。
父が愛した「鯉」。後日「けい」が描いたもの。
★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
縁日で 亡夫(つま)ともとめし錦鯉戸を繰る度に口あきてまつ
★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
蓮の葉の 水玉揺らす 池の鯉
★ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
結局、一日後そのまま意識を取り戻すことなく逝ってしまった・・・・。
私たち「東京組」が駆けつけ、一日でも介護らしきことが出来たことに感謝する時間を作ってくれて・・・。
思えば、42歳で倒れて半身不随になった父。
私が3歳、妹が母のお腹で臨月のある日・・・。
そんな父は、今考えても信じられない位の努力で、右使いから左使いに体をチェンジし、見事な字を書くまでに変身し、私たち7人の子供を育ててくれた人生だった。
半身を引きずり歩く父・・・、残った左の手一本で育った私たち。
私が言うのも変だけど、ハンサムだった父・・・。
でも、それも写真を見ただけで、私の記憶の中の父は、右手を固く曲げ、右足を重く引きずりながら歩く父だ。
でも、一度も「普通のお父さんと違う」と思わなかったのが不思議。
子供達を愛し、妻「けい」を愛し、左手一本で家族を守って・・・逝った・・・。
77歳・現役のまま・・・。
「けいの部屋」 参照 👇
http://rurikoha.web.fc2.com/kei/
そんな、不思議な・不思議な ある年の出来事だった。
.