MEMEの日々のことども

日々の星屑を拾って書き残そう・・、そんな「85歳」。  HP「素材の小路」「MEMEのベランダ」(裸婦デッサン等)「MEMEの便箋」「ドレスの小路」「けいの部屋」など。

今日は「デッサン会」

今日は終戦記念日

68年前のあの日もこんなピーカンの空だった・・・。
私は小学2年生。


疎開先(母の実家)で聴いた「玉音放送」のシーンも良く覚えて居る。
親戚・家族、(疎開していた母の妹一家も含む)・看護婦さん(祖父と叔父が医者)・お手伝いさん達・・・、広間に大勢の人人・・が打ちそろって今か今かと耳を澄まして身構えていた緊張感を思いだす。
幼かった私達子供は、何となく漂う違和感を感じ、広間の廊下の柱に掴まっていた事を覚えて居る。

そして、「玉音放送」が終った後、納得いかないという不思議な沈黙があり、そこここで小さな声で囁き合う雰囲気があり、「女は頭を丸めることになるのかなぁ・・」とか、「子供はアメリカが来たら隠れるように」とか、緊張感が漲った。

それを機に、新潟市の我が家に戻ることになったのだが、三か月ぶりに一歩入った我が家の「空しい」空気感も鮮やかに覚えて居る。

終戦直前、「新潟に新爆弾が落ちるので、即刻避難せよ」との臨時命令があり、新潟で勤務していた父と姉が、殆ど着の身着のままで突然疎開先に辿り着いたのも記憶している。
これは、まさに本当の話で、日本海の要所・「新潟港」を照準に原爆を落とす計画があったそうだ。
それも、一番先に・・・。

で、臨時命令で父たちが新潟を出発する時は、人っ子一人居ない状態で、猫が道を横切るのが見えただけ・・・と話していたのを覚えて居る。


そんないろいろを思い出す中で、一番感謝しているのが、疎開先の叔母や母の実家の家族だ。
嫌な顔一つせず、私達一家や、母の妹一家を引き受けて下さった。

今は亡き叔母には本当に良くして頂いた・・・。
もう感謝の気持ちを伝える事が出来ないが、今にして思えばどんなにお大変だったことと思う。
この気持ちは絶対忘れない。



今日も「デッサン会」に出かけてきた。
本当にみんな熱心で、この暑さにも拘らず欠席者も少なく、みんな一生懸命に描いている。



クロッキーが4枚描けて楽しかった。


          黒ストッキングを片方だけ履こうとしているポーズ
     


           髪を掻き上げるポーズ
  

     


           




そして・・、デッサンは本当は先回の作品に手直しをする日なのに、私は初めから新しく描きなおした。
でも、全然進歩が無く、全く同じようなものを描いてしまったのでがっかり・・・。

別のポジションから描きたかったが、みなさんぎっしり詰まっていて、移動できずに同じところから描いたので、当たり前といえば当たり前・・・。  ^m^


       今回の作品



          先回の作品 



今、「NHKスペシャル シリーズ日本新生「戦後68年 いま“ニッポンの平和”を考える」東京

http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2013-08-15&ch=21&eid=17341&f=46

を見終わったところ。
う〜〜〜ん、考えさせられることが多いこと!!
一国民として、この難問題の行方をしっかりと見据えて、間違った方向に行かない様に監視(?)していかなくては・・・。










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