MEMEの日々のことども

日々の星屑を拾って書き残そう・・、そんな「85歳」。  HP「素材の小路」「MEMEのベランダ」(裸婦デッサン等)「MEMEの便箋」「ドレスの小路」「けいの部屋」など。

すいとん

今日の昼食は、カレーうどん
家人がい〜〜っぱい作ってくれた「チキンカレー」で、まずはカレーうどん



そのうどんが、いつもとちょっと違って「もちもち」と歯触りがしっかりしていた。
そこで二人の会話・・・。


「この歯触り、昔の『すいとん』を思い出さない?」
「ほんとだ。 昔は良く食べたよね。
だけど、すいとんの歯触りを知っている世代は、もう5年位で終わりかもね」
「そうねぇ・・・。当時を知る人は私達世代がリミットだものね・・・。
戦後の食糧難時代は、すいとんなどもめったに食べられなかった・・・。
それにしても、『すいとん』ってどんな字を書くんだろう・・・。ちょっとタンマ、PCで検索してみるね」


食事中なのに、PCに駆け寄る私。


「あれ〜!?  『水団』て書くのね』 な〜るほど。
終戦当時、おじいんち(主人の家)も私んちも、兄妹が6〜7人いたけど、母親達はどんな工面をして食べさせてくれたんでしょうね」


ほんと、な〜〜んにも無かった食糧難時代にここまで大きく育てて貰ったことが不思議!






お椀の中でお米がひょろひょろ泳いでいる御雑炊・・・とか、蒸かしたお芋を一本・・・とか、芋の蔓を干したものを水でふやかして甘辛く煮たものとか・・・、配給の脱脂大豆の粉を紙袋に入れて蒸したもの・・・とか、今では考えられないような工夫と知恵で育ててくれたことを思うと、話している内に胸にこみ上げるものを感じた。






家人の家は、家人を頭に6人兄妹(最後が女で、5人目までは男の子)がずらり・・・。
義母のお嫁入りの着物の殆どが食糧に替わったそうだ。
東京で奮闘した義母・・・。
どんなにか大変だっただろうと思う。







勿論、私が育った家族とて例外ではなく、7人兄妹を育ててくれた父母の苦労はどんなだっただろう。
私が3歳の時に発病、右半身不随になっていた父が、近所にお借りした土地で左手だけで耕して芋などを作って食べさせてくれた。


その借地を、私たちは意味も分からず「しんこうない」と呼んでいた。
後に、そこが今の新潟駅の「新構内」だったことを知る。  (~_~;)







終戦直前の三か月は母の実家に疎開
そこで頂いた「かぼちゃ」がほくほくして美味しかったことも思い出す。
母の実家の叔母(母の兄嫁)は、嫌な顔を一つも見せずに、複数の疎開家族を快く引き受けて下さり、総勢何十人にもなる食事を工面して下さっていたことに今、はたと思い至る・・・。
自分の家族は勿論のこと、医院(家業)に従事している人々、お手伝いに従事している人々、それに私達疎開者連中・・・。
もう、気が遠くなりそうな人数の食事材料の調達を、どのようにこなしていらしたのだろうと思う。
偉い!!  偉すぎる!!
今更尊敬したり感謝しても、叔母はもうとうに居ない・・・。
ご存命の内にこの心を一言でもお伝えしたかった・・・と、今思う。










あらら、「すいとん」からどんどん思考が広がって・・・。


一昨日、久しぶりに母の夢を見たのも影響しているのかな?