MEMEの日々のことども

日々の星屑を拾って書き残そう・・、そんな「85歳」。  HP「素材の小路」「MEMEのベランダ」(裸婦デッサン等)「MEMEの便箋」「ドレスの小路」「けいの部屋」など。

義母の命日

★ 今日は熊谷や東京で初雪が降ったらしい。
朝起きた瞬間から寒かった!
一緒に頭を並べて寝ていたルリちゃんが、一度起きたのに、あれ?いないぞ・・・と探してみたら、私のベッドが「もっこり」・・・。   これこれ! 寒かったのでもう一度もぐもぐしたのね (^_-)-☆



★ 今、テレビを見終わったところ。
「世界の衝撃映像63編」(題は忘れた) というもので、まぁ、びっくりびっくりの衝撃的な映像の連発にただただ「ぶわ〜ッ!」と息を呑んでいた。
そこで私の弱点を発見・・・。  一番怖かったのは「高いところ」の映像。
足先が痺れてしまう〜・・・!
ちなみに、一位は「230kg」の青年がダイエットで100kgを切る体重になった事!
まるで完全に別人!!!!!
こんなに違う人間になれるなんて、信じられない思い。
わたしもあと「20kg」減量出来たら、どんなに素敵なおばあになれるでしょう・・・!
あ、でも、そんなに美しくなったら美人薄命の運命が待っているかも・・・!
(え? 元が元だからそんな心配ご無用・・・とな??)

やっぱり、この「どすこい」でいいことにしょう。  (=_=)



★ 今作っているドレスは、「タイシルク・ジムトンプソン」の玉虫色の美しいグリーン。
同色のレースをあしらって、素敵になりそう!!!  (^_-)-☆
大学の先生のリサイタルでご着用の予定なので、品良く、落ち着いたドレスに仕上げようと思う。


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★ 今日は義母の命日。
午前中にお墓に出かける。
三十三年前の「アノ」修羅場、一ヶ月半の間に、元気だった「義父・義母・実父が相次いで逝った日々」を思い出す。  ↓

http://d.hatena.ne.jp/retoto/20081201/p1

こんな凄い偶然が起こることに驚愕した日々だった。
義父に続き、義母がガンの発見から間もなくあっという間に突然逝ってしまった。
元気だった義父母があっという間に相次いで逝き、40日で二つの葬儀を出す事になった長男である家人。
しかもその間に、一歳9ヶ月のチビを連れて、京都からお産で里帰りしていた義妹の出産もあり、母親代わりもすることになった私。
目が離せないチビちゃんと、臨月の義妹と、病院の義母の介護、そして、泊りがけで駆けつけて下さった遠方よりの見舞い客(叔母たち)のご接待・・・。


糖尿病食を・・・とおっしゃる叔母の食事と、義妹の産後のおっぱいが出るような食事と、チビ用の食事と・・・、と、目が回るような日々。
しかも、使い慣れない義母のお台所・・・。


信じられないような出来事の連続に、プチ引越しをして事態に備えた私達。
中二と小四の息子達は慣れない電車で通学をするはめに・・・。


そんな事態も乗り越え、義妹の産後も無事安全な時期に入ったのを見届けて、やせ細った身体で(ホントだってば)我が家に引き上げ、辿り着いたのが17日。
あまりの出来事の連続に、お正月に出来なかった「成田山参り」で身を清めよう・・・と出かけて、ふらふら自宅に帰ってきたら、りりり〜ん!と電話・・・・。
「ず〜っと電話していたのよ!  大変!おじいちゃん(父)が倒れたから直ぐ来て!!!」と息せき切った新潟在住の姉の声・・・・。


取る物もとりあえず、所沢にいる妹と二人で新潟行きの夜行列車に乗り込む。
そして翌日駆けつけた病院で娘達(5女がぞくっと揃った!  (>_<))の徹夜の看護の中、静かに77歳の生を閉じたのだ。


実家の一番大好きな場所「池のほとり」で、後ろ手の姿勢のまま、自慢の「鯉」を眺めていて突然倒れたという父。
大きな石に頭を打って、そのまま意識が戻らないまま静かに逝った・・・・。
一番好きな場所で倒れたという父。









縁日で 亡夫(つま)ともとめし錦鯉


  戸を繰る度に口あきてまつ


    (けい)


http://retoto.cool.ne.jp/kei/koi.htm






42歳の若さで脳溢血に見舞われ、右半身付随になりながらも、私達7人の子供を育て上げてくれた明るい父。
全部の子供を隔たり無くこよなく愛してくれた父。
半身不随の身にもめげず力強く立ち上がり、左手での生活に敢然と立ち向かった父。
あんなにダンディを誇っていた長身の父が、ずるずるひきずる足で職場に復帰した時の屈辱感は如何ばかりだったかと胸が痛い。
しかも、慣れない左手での仕事のもどかしさ・・・。

でも、父は強かった!
子供達と愛する母の為に、亡くなる77歳まで現役を通して、亡くなった・・・。


私は、父が身体障害者だという事をあまり意識することなく育った。
ただ、何となく言葉が重いなぁ・・・という感じを持ち、もう少しすらすらとスマートな話方をすれば良いのに・・!と思ったものだった。
しかし、この症状が「右半身不随」の場合に起こる言語障害だということを最近知り、そんな事とも戦っていたのか・・・と、胸が痛んだものだ。


私が3歳の時の発病なので、凛々しい父の姿を私は知らない。
私の全ては父の「左手」一本で育った。
その愛しい左手を擦りながら、感謝で祈った。


そして・・・。
私たちは、一日だけだったけれどちゃんと看護をさせて貰えたし、本当に綺麗な潔い亡くなり方だったこともあり、変な心残りが無かったのも幸いだった。

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そんな衝撃的な出来事があってから早や33年の月日が流れたのだ。


私が母代わりをした義妹の赤ちゃんがすくすく素晴らしい青年に育ち、何と、目出度く結婚し(あ・・・!そうそう、あの「 靴 事件」の結婚式・・・!)去年パパになりました!!

http://d.hatena.ne.jp/retoto/20070828


力を合わせて乗り越えたあんな事があったからこそ、私達「嫁(古)軍団」は仲が良い!
ありがたいことだ。


三つの出来事が交錯して分かり辛いと思うが、ここにとりあえず記しておこう。